応神天皇39年、尾張國熱田神宮より「熱田大神」の御分霊を迎えて斎き祀る。
同42年4月、伊勢國伊勢神宮より「天照皇大神」、諏訪大社より建御名方命を迎え相殿に斎き祀り、「伊鈴神社」と称した。
明治40年6月25日白山社、同41年3月18日、伊勢宮、白髭社、春日社、八幡社、八劔社、日枝社(山王社)の
いわゆる上穂8社を合祀して「大宮五十鈴神社」と称した。
「熱田大神」の御本社は「熱田神宮」、「熱田神宮」の創始は、三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」の御鎮座に始まります。「草薙神剣」、又の名を「天叢雲神剣(あめのむらくものみつるぎ)」といいます。「天叢雲神剣」は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」が「ヤマタノオロチ」を倒した際に、尾を切り刻んだとき出てきた剣で、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」に献上されました。やがて「倭姫命(やまとひめ)」に引き継がれた「天叢雲神剣」を、「東征」といって東国の制圧に出掛ける「日本武尊(やまとたけるのみこと)」に渡され、「日本武尊」が討伐の際に「天叢雲神剣」で辺りの草を薙ぎ払い火打ち石で火をつけ退治したことから、その場所を「焼津(やいづ・現在の静岡県焼津市)」この刀「天叢雲神剣」を「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」とも言うようになりました。東征ののち尾張で「宮簀媛(みやずひめ)命」と結婚した「日本武尊」は「宮簀媛」の元に「草薙神剣」を預けたまま伊吹山の悪い神を退治しに行きましたが、病にかかり亡くなってしまい、「宮簀媛」は「熱田神宮」を建立し「草薙神剣」を祀ったことから、「熱田大神」とは「草薙神剣」の神霊とされ、「草薙神剣」を御神体とする「天照大御神」のことであるとしていることが多いようですが、この神話にもあるように「日本武尊」と非常に関わりが強くこれらの神話に登場し、「熱田神宮」の相殿にもお祀りされている「天照大御神」「素盞鳴尊」「日本武尊」「宮簀媛命」「建稲種命」を「熱田大神」と称しているなど様々な説もあるようです。
「天照大御神」は、日本の最高神で太陽を司る神様で御本社は「神宮(伊勢の神宮)」です。「古事記」では、火の神を産んで無くなってしまった「伊?弉冉(いざなみ)大神」を「黄泉(よみ)の国(死の国)」まで追いかけ逃げ帰ってきて、禊(みそ)ぎをした「伊弉諾(いざなぎ)大神」が左目を洗ったときに出現した神様とされていて、右目からは「月読(つくよみ)大神」鼻からは「建速須佐之男(素盞鳴・すさのお)大神」が出現し、この三神を三貴子(三貴神)と呼びます。「天の岩戸神話」で、岩戸隠れされた「天照大御神」が扉の隙間から自身の姿を映し出した鏡が「八咫鏡(やたのかがみ)」、「この鏡を天照大御神自身だと思って祀るように」との神勅により、今の「神宮(内宮)」の起源になっています。また、この「八咫鏡」とあわせ、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「天叢雲剣」の三つを「三種の神器」といい、皇位継承・天皇の即位に際し代々伝えられており、「天照大御神」は、皇室の先祖神(皇祖神)でもあります。
「建御名方大神」の御本社は「諏訪大社」、「建御名方大神」は「出雲大社(いずもたいしゃ)」の神様「大国主(おおくにぬし)大神」のお子さんで、奥さんは「八坂刀売(やさかとめ)大神」、軍神・武神また、風神・水神として崇められています。古事記と日本書紀を「記紀」といいますが、その「国譲り」に登場する神様です。「天照大御神」が、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」の統治権を譲るよう「大国主大神」に申し伝えた際、「二人の息子に意見を聞いてみてくれ…」と言いった二人の息子が「事代主(ことしろぬし)大神…恵比須様」と「建御名方大神」でした。やがて国を譲った「建御名方大神」が治めている「諏訪大社」のある諏訪には、「建御名方大神」が諏訪湖の龍神であり、この地の尊い支配者であると伝わっており、また軍神として歴史上の多くの人物に信仰され全国に諏訪信仰が広まっています。武神・軍神といった庶民からかけ離れた信仰とは裏腹に、狩猟の神から山の神、そして風・水・田の神という、農業を中心とした地元密着の庶民の神様といった身近に感じる一面も持ち備えた神様です。
「伊弉冉大神」の御本社は「多賀大社」、「伊弉諾(いざなぎ)大神」の奥さまです。古事記の「国産み」「神産み」において、お二人は沢山の子供(神様)をお産みになりました。淡路島や隠岐島やがては日本列島をお産みになり、それから更に山や海など森羅万象の神々をお産みになりました。しかし「伊弉冉大神」は、火の神様をお産みになったとき大火傷を負ってお亡くなりになってしまいましたが、「伊弉諾大神」が追いかけていってから帰ってきて禊ぎをするまでの間にも多くの神々をお産みになりました。「イザナミ」の「イザナ」は「誘う(いざなう)」の意で、「ミ」は女性を表?すとされています。黄泉の国との境で交わされた会話で、「イザナミ」…「私はこれから毎日、一日に千人ずつ殺そう」、「イザナミ」…「ならば私は、一日に千五百人生ませよう」とありますが、これは人間の生き死にの原理を表しています。
「菊理姫大神」の御本社は「白山比咩(しらやまひめ)神社」、古事記には一切登場しない神様ですが日本書紀に出てきます。火の神様をお産みになった際、大火傷を負って亡くなってしまった「伊弉冉大神」を死の国まで追っていった「伊弉諾大神」が、「伊弉冉大神」の変わり果てた姿を見て死の国から逃げ出し、死の国の出口で口論になりました。その口論の仲介に入った神様が「菊理姫大神」です。そのことから、「あの世」と「この世」を取りもつ本来の巫女の先祖であり、2神の仲を取りもったということから物事に纏まりをつける神様です。
「天之児屋大神」の御本社は、大阪府の「枚岡(ひらおか)神社」、天の岩戸神話で岩戸から「天照大御神」に出ていただくようにと祝詞(のりと)を申し上げた神様です。祝詞を申し上げた…ということは、お祭りを行う、つまり「斎主(さいしゅ)」ということで神事や祭事を司り広くは政治を司る神様です。中臣氏の祖先神とされており、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神として信仰されていてとても美しい声の持ち主だったとことから祝詞の神様、また出世の神様であります。
「誉田別大神」の御本社は大分県の「宇佐神宮」、「誉田別大神」は15代天皇「応神(おうじん)天皇」のことです。「神」という字がついた天皇陛下は初代「神武天皇」第10代「崇神天皇」と当「応神天皇」の3代だけです。「誉田別大神」は、全国の「八幡(はちまん)神社」「八幡(やわた)神社」の御祭神で、「八幡様」のお祀りされている神社は全国に8千社あり、御祭神別にお祀りされている神社の統計で全国1位であることからも「八幡様」のご神威が伺えます。
「豊受姫大神」の御本社は「神宮(伊勢の神宮)外宮」、「豊宇気毘売神」「豊受大神」「豊由宇気大神」「等由気大神」などの別称を持ちます。雄略天皇の夢枕に「天照御大神」が現れて、「自分一人では食事もままならない。丹波の国の比沼真奈井にいる御饌の神を近くに呼び寄せて欲しい」と言われ、現在の神宮「外宮」にお鎮まりになったというお話は有名ですが、そういったことからも私たちの生活の元となります衣・食・住を司る神様、中でも食物・穀物を司る神様であります。
「大鷦鷯大神」の御本社は大阪府の「東高津神社」、「大鷦鷯大神」とは第16代天皇「仁徳(にんとく)天皇」のことです。「誉田別大神(応神天皇)」の子供で、応神天皇の後に御即位されました。
「大国主大神」の御本社は「出雲大社」、別名を「大己貴(大穴牟遅…おおなむち)大神」「葦原色許男(あしはらしこを)大神」「矢千矛(やちほこ)大神」「宇都志国玉(うちしくにたま)大神」「大物主(おおものぬし)大神」など沢山あり、神話にも数多く登場する神様です。「大国主大神」は国内平定・国土経営修理・天下巡業・農業・国土の保護・医薬温泉の神様です。
「大山咋大神」の御本社は滋賀県の「日吉大社」、「素盞鳴大神」の子供であります「大年(おおとし)大神」が「天知迦流美豆比売(あめのしるかるみずひめ)大神」と結婚して出来た子供で、またの名を「山末之大主(やますえのおおぬし)大神」「鳴蕪(なるかぶら)大神」といいます。比叡山延暦寺また天台宗の御守護神、また江戸時代には徳川家の氏神とされていました。
「猿田彦大神」の御本社は三重県の「猿田彦神社」、「天孫降臨(てんそんこうりん)」で天津神(あまつかみ)が天降りする際に道案内をされた神様です。日本書紀にある「鼻長七咫、背長七尺」という記述から天狗の元、原型であるとされ、当社にも伝わる獅子練りで獅子の道案内、先導を務めることから広く知られています。道案内をしたことから、道の神様、旅の神様と親しまれ、また「サル」ということから「庚申」信仰も相まって道祖神と同一視され広く祀られています。道案内の際、高天原から葦原中國まで照らしていたことから、天地を照らす神…「太陽神」とする説もあります。
「迦具土大神」の御本社は静岡県の「秋葉山本宮秋葉神社」、「火之夜藝速男(ひのやぎはやをの)神」「火之炫毘古(ひのかがびこの)神」「火之迦具土(ひのかぐつちの)神」「軻遇突智(かぐつち)神」「火産霊(ほむすび)神」などの別名があります。一般には「火具土」と表記されることが多く、「火」の神様です。「伊弉諾大神」と「伊弉冉大神」の神生み神話で、「迦具土大神」を「伊弉冉大神」がお生みになったときに負った火傷で死んでしまい、その怒りから「伊弉諾大神」に殺されてしまうわけですが、その際「迦具土大神」の血や死体から多くの神々が生まれました。
明治40年(1907年)と41年(1908年)の2年間に亘り上穂八社が合祀され、合祀に併せ今の御本殿が建てられました。明治44年に地鎮祭が行われ、大正元年に竣工しました。諏訪の大隅流の大工さんにより建てられた本殿には、龍や獏など立派な彫刻が施されています。
※この写真は、拝殿改築に伴い旧拝殿が取り壊され更地になった年の、お正月の貴重な写真です。
本殿の前に設けられ、祭典を行う為の建物を拝殿といいます。平成17年(2005年)に氏子の皆様の尊い御浄財により新築されました当拝殿は、土足のまま入り椅子(胡床)に座って参列できるといった、当時では画期的な拝殿でした。神職が祭事を行うところを幣殿、参列するところを拝殿といいます。
拝殿の北隣に「末社殿」があります。末社殿は、昭和3年に建てられましたが、本殿に同じく神社合祀令に伴い氏子区域内に祀られていた神様が合祀されたと思われます(由緒不詳)。合祀された御社は12社、御祭神は15柱、①元白山社境内
明治42年に建てられた神楽殿、屋根の瓦が重く耐震性を高めるよう平成27年に屋根を葺き替え、床と天井を修繕して、宵祭では年番から選出された舞姫が「浦安の舞」を舞います。
これまでの社務所の老朽化に伴い、平成22年に新築された社務所。総代会などの会議や祭典後の直会が行われるとともに、落語会が催されたり、雅楽の練習などで使用されています。
だるまに御札や御守など、1年間お世話になった神符、また神棚入れ替えのために不必要となった古い神棚を納める建物です。ガラスなどの不燃物を取り除いてお納め下さい。お焚き上げ料は、お賽銭箱にお気持ちをお納めください。
鳥居とは、神社の玄関、門に当たるもので聖域の入口であります。大宮五十鈴神社の「一之鳥居」は大正9年6月に竣工したものですが、当時総重量10トンを超える石の鳥居建立には莫大なる手間と費用、そして氏子皆様の篤い念いが込められていました。東郷平八郎元帥揮毫による社額が氏子の誇りを物語っています。
神社にお参りする際は、禊ぎを簡略化した手水を行い、神様に額ずきお参りをします。龍ノ口は、水神様であります龍を象り心身を清めてくれます。本来、鳥居をくぐる前に手水を執りますが、当神社は手水舎が一之鳥居の中にありますので、便宜上石段の途中に二之鳥居を設けてあります。